空気の標本

諸芸術の空気感を標本として抽出し、アーカイブするプロジェクト

1㌶で藁に沈む (映画『私の叔父さん(2019)』レビュー)

デンマークで暮らす酪農一家]

酪農家の暮らしとはどのようなものだろう。ある時は汗だくで干し草を運び、額に張り付いた草を取ろうとして顔に泥を塗ってしまう。またある時は牛の糞をさらいながら、ツナギに着いた茶色い染みが泥なのか糞なのかわからなくなる。そうして同じ土地にピタリと張り付いたまま背骨が曲がっていく。「私の叔父さん」の冒頭は、そんな僕のイメージとそれほど変わらない映像から始まった。主人公であるクリスの着替え、叔父との朝食、酪農作業、就寝までのTV、クリスは足が悪い叔父を介助しながら毎日を潰していく。彼らの生活は、自然と調和した美しい生活というより、資本主義社会のへりにしがみつく困窮者のように映される。クリスは密かに獣医になる夢を持つが、両親を亡くしてから、叔父の介護をする生活から抜け出せないでいる。それはもちろん経済的な理由もあるが、最も大きな理由は叔父への心配から。彼女は携帯を持たず、外泊もしない。変わらない毎日の中で夢を押し殺し、時が経っていく。しかし、恋人や、獣医との出会いにより彼女の人生は少しだけ変化の兆しを見せた。

 

[狭い世界のクリスと愛することの幸福]

マイクとのデートも終盤に差し掛かると、二人は車を降り、郊外から農村の風景を見る。「美しいだろ」とクリスに言葉を投げたマイク。彼の指す景色は、(直感的に言えば)確かに美しかった。日照時間の少ない北欧の薄暗い空の下、地方特有の建築物が生えない広大な農園。陽の光は分厚い雲を僅かに貫き、霞み、まるで地底から光が湧く沼のように鈍く輝いている。その空を背景に幾羽かの黒い鳥が飛んでいく。これがこの映画で映された最も「美しい映像」だ。「美しい」と劇中で言われたのも(恋人への賛辞以外では)ここだけだった。それまではクリスと叔父の作業風景や表情ばかりだったので、数少ない"景色に重きを置いた映像"として印象的に映った。そしてそのことが、クリスの世界の狭さを感じさせた。

劇中ではコペンハーゲンの煌びやかな街並みも映されず(回転寿司屋の中と大学の中だけは映った)、クリスとマイクと叔父が観ていた映画も映されない。携帯端末を持たず、コペンハーゲンを未踏の地として数えていたクリスは、この世界の美しさをまだ何も知らない。そのことを農家の生活を終始映す平坦な映像が物語っている。両親を失い、獣医になる夢に燻られながら叔父のズボンを毎日履かせている華奢な背中。そんな彼女が地元の景色を「美しい」と語る。「愛する人と暮らすのは幸福だ」「幸福は人それぞれだ」そんな月並みな言葉では濾過しきれない濁った境遇、そしてクリスの無垢な気質と静かな葛藤。いつだって観客は無力だ。溺れた少女が海中に揺らぐ光のベールに見とれて死んでいくとしても、映像に飛び込むことはできない。銀幕に映されたのは薄暗い農場と、閑散としたデンマークの片田舎。クリスの目に映るのはそんな沼のような現実と、その中に灯るぼんやりとした光だけなのだ。

 

[エンドロール後にクリスが語ったこと]

結末に関して、意見は大きく分かれると思う。しかし恐れずに言わせて貰えば、彼女はもう牛の糞さらいをしていないだろう。

叔父の退院後は恋人も獣医の教授も拒絶し、叔父と酪農をするクリスからは、"いつもの暮らし"に戻ろうとする強い意思を感じた。この映画は「閉ざす」ことで幕を降ろすのだという予感に満ち、そのまま終わるかに見えた最後、朝食をとっているとテレビが壊れ、クリスが会話を切り出すところで幕を閉じた。 エンドロールでは誰もが同じことを考えただろう。つまり「クリスは最後に何を言おうとしていたか」である。僕はここで、獣医の道へ踏み出す言葉を口にしたのだと言いたいのだ。

テレビが映らなくなったことでクリスは"世界を見ること"ができなくなり、農場の外との繋がりが絶たれた。これはともすれば、彼女が獣医という夢から締め出され、農場で暮らすことを決めたメタファーとしても受け取れる。しかし一方で、静かに会話をする機会が強制的に訪れた初めての機会とも言えるのではないか。これまでクリスと叔父が会話をする時は必ず目を逸らすものがあった。テレビやボードゲーム、買い物、そして叔父のギプス。映画を通して、面と向かってというよりは片手間に話し、お互いに最も話すべきことを胸に抱え続けて日々が過ぎていく印象があった。しかしテレビの消失で強制的に日常が停止し、静寂が訪れる。そこで切り出す話は世間話ではなく、将来の話であるはずだと僕の願望も込めてここに記しておきたい。

 

映像人類学へのすすめ]

映画冒頭、デンマークの酪農家の生活を観ていて、自分では経験し得ない他者の暮らしや文化を知る面白さ、つまり文化人類学的なエッセンスを感じた。小田香監督による『セノーテ』、公開中の太田光海監督の『カナルタ 螺旋状の夢』等、そういった面白さを内包した映画が僕の中でちょっとブームだ(気になる人は映像人類学で検索)。例えば「サイコーダヨ」という歌がアフリカの小さな島で伝統的な歌として歌われていたり、アフリカのキャッシュレスが進む国で何故か貝殻の貨幣が今だに使われていたり。そういう未知の話は冒険心をくすぐるとともに、発展途上国の暗がりをを映し出し、裕福な日本人である自分、ガラパゴス国家に住む自分が浮き彫りになる。

ちょっと前に出た現代詩手帳に先程挙げた監督2人の対談や、映画についての批評等が掲載されていたので、文化人類学・詩の入り口にとてもオススメしたい。