空気の標本

諸芸術の空気感を標本として抽出し、アーカイブするプロジェクト

1㌶で藁に沈む (映画『私の叔父さん(2019)』レビュー)

デンマークで暮らす酪農一家]

酪農家の暮らしとはどのようなものだろう。ある時は汗だくで干し草を運び、額に張り付いた草を取ろうとして顔に泥を塗ってしまう。またある時は牛の糞をさらいながら、ツナギに着いた茶色い染みが泥なのか糞なのかわからなくなる。そうして同じ土地にピタリと張り付いたまま背骨が曲がっていく。「私の叔父さん」の冒頭は、そんな僕のイメージとそれほど変わらない映像から始まった。主人公であるクリスの着替え、叔父との朝食、酪農作業、就寝までのTV、クリスは足が悪い叔父を介助しながら毎日を潰していく。彼らの生活は、自然と調和した美しい生活というより、資本主義社会のへりにしがみつく困窮者のように映される。クリスは密かに獣医になる夢を持つが、両親を亡くしてから、叔父の介護をする生活から抜け出せないでいる。それはもちろん経済的な理由もあるが、最も大きな理由は叔父への心配から。彼女は携帯を持たず、外泊もしない。変わらない毎日の中で夢を押し殺し、時が経っていく。しかし、恋人や、獣医との出会いにより彼女の人生は少しだけ変化の兆しを見せた。

 

[狭い世界のクリスと愛することの幸福]

マイクとのデートも終盤に差し掛かると、二人は車を降り、郊外から農村の風景を見る。「美しいだろ」とクリスに言葉を投げたマイク。彼の指す景色は、(直感的に言えば)確かに美しかった。日照時間の少ない北欧の薄暗い空の下、地方特有の建築物が生えない広大な農園。陽の光は分厚い雲を僅かに貫き、霞み、まるで地底から光が湧く沼のように鈍く輝いている。その空を背景に幾羽かの黒い鳥が飛んでいく。これがこの映画で映された最も「美しい映像」だ。「美しい」と劇中で言われたのも(恋人への賛辞以外では)ここだけだった。それまではクリスと叔父の作業風景や表情ばかりだったので、数少ない"景色に重きを置いた映像"として印象的に映った。そしてそのことが、クリスの世界の狭さを感じさせた。

劇中ではコペンハーゲンの煌びやかな街並みも映されず(回転寿司屋の中と大学の中だけは映った)、クリスとマイクと叔父が観ていた映画も映されない。携帯端末を持たず、コペンハーゲンを未踏の地として数えていたクリスは、この世界の美しさをまだ何も知らない。そのことを農家の生活を終始映す平坦な映像が物語っている。両親を失い、獣医になる夢に燻られながら叔父のズボンを毎日履かせている華奢な背中。そんな彼女が地元の景色を「美しい」と語る。「愛する人と暮らすのは幸福だ」「幸福は人それぞれだ」そんな月並みな言葉では濾過しきれない濁った境遇、そしてクリスの無垢な気質と静かな葛藤。いつだって観客は無力だ。溺れた少女が海中に揺らぐ光のベールに見とれて死んでいくとしても、映像に飛び込むことはできない。銀幕に映されたのは薄暗い農場と、閑散としたデンマークの片田舎。クリスの目に映るのはそんな沼のような現実と、その中に灯るぼんやりとした光だけなのだ。

 

[エンドロール後にクリスが語ったこと]

結末に関して、意見は大きく分かれると思う。しかし恐れずに言わせて貰えば、彼女はもう牛の糞さらいをしていないだろう。

叔父の退院後は恋人も獣医の教授も拒絶し、叔父と酪農をするクリスからは、"いつもの暮らし"に戻ろうとする強い意思を感じた。この映画は「閉ざす」ことで幕を降ろすのだという予感に満ち、そのまま終わるかに見えた最後、朝食をとっているとテレビが壊れ、クリスが会話を切り出すところで幕を閉じた。 エンドロールでは誰もが同じことを考えただろう。つまり「クリスは最後に何を言おうとしていたか」である。僕はここで、獣医の道へ踏み出す言葉を口にしたのだと言いたいのだ。

テレビが映らなくなったことでクリスは"世界を見ること"ができなくなり、農場の外との繋がりが絶たれた。これはともすれば、彼女が獣医という夢から締め出され、農場で暮らすことを決めたメタファーとしても受け取れる。しかし一方で、静かに会話をする機会が強制的に訪れた初めての機会とも言えるのではないか。これまでクリスと叔父が会話をする時は必ず目を逸らすものがあった。テレビやボードゲーム、買い物、そして叔父のギプス。映画を通して、面と向かってというよりは片手間に話し、お互いに最も話すべきことを胸に抱え続けて日々が過ぎていく印象があった。しかしテレビの消失で強制的に日常が停止し、静寂が訪れる。そこで切り出す話は世間話ではなく、将来の話であるはずだと僕の願望も込めてここに記しておきたい。

 

映像人類学へのすすめ]

映画冒頭、デンマークの酪農家の生活を観ていて、自分では経験し得ない他者の暮らしや文化を知る面白さ、つまり文化人類学的なエッセンスを感じた。小田香監督による『セノーテ』、公開中の太田光海監督の『カナルタ 螺旋状の夢』等、そういった面白さを内包した映画が僕の中でちょっとブームだ(気になる人は映像人類学で検索)。例えば「サイコーダヨ」という歌がアフリカの小さな島で伝統的な歌として歌われていたり、アフリカのキャッシュレスが進む国で何故か貝殻の貨幣が今だに使われていたり。そういう未知の話は冒険心をくすぐるとともに、発展途上国の暗がりをを映し出し、裕福な日本人である自分、ガラパゴス国家に住む自分が浮き彫りになる。

ちょっと前に出た現代詩手帳に先程挙げた監督2人の対談や、映画についての批評等が掲載されていたので、文化人類学・詩の入り口にとてもオススメしたい。

私たちは銀幕の向こうで、ジャック・ドゥミとすれ違う

”以下の文章はミニシネマのジャック・ドゥミ監督特集上映に際して執筆された文章である”

 

ジャック・ドゥミヌーヴェルヴァーグ左岸派を代表する映画監督の一人であり、錚々たる監督たちが顔を連ねるフランス映画史の中でも、最も独創的な監督の一人として名を残している。パルム・ドールを受賞した『シェルブールの雨傘1964)』や『ロシュフォールの恋人たち1967)』などミュージカル映画がよく知られている。

私は彼の映画を観る中でとある二つの特徴、故郷を舞台としたり、作品に自らを重ねたりと自伝的な要素が多いこと、映画世界への憧れに満ち満ちていることが浮かび上がってきた。本稿では、彼の故郷、そして映画への憧れについて語っていきたいと思う。

ドゥミ監督の映画の多くは、故郷であるフランスを舞台としている。特に『ローラ』は生まれ故郷のナントが舞台であるし、傑作と名高い『シェルブールの雨傘(1964)』もフランスの港まちが舞台になっており、同じく港まちであったナントからの影響が伺える。自身の人生から多くのインスピレーションを受けていることが伺える(ちなみに『ローラ』に登場するローランは彼と同じヴァイオリン弾きであるし、ローランは28歳で、撮影時のドゥミ監督は29歳)。

そしてもう一つは、少年時代に何度も足を踏み入れた夢の世界への、強烈な憧憬である。

 

「私は、もうすっかり魅了されてしまいました。(中略) 赤の絨緞、金、きらめく照明、ビロードの幕の後に降りてくる鉄製のシャッター……。それらは、すっかり私を魅了したものだったのです。それはまったくもう魔法のようでした。」

 

彼の映画には、フランス映画の世界への憧れ(彼は『ローラ』に関するインタビューで『白夜(1957)』や『ブローニュの森の貴婦人たち(1944)』に影響を受けたと述べている)や、海を越えたアメリカへの憧れ、その香りが強く渦巻いている。しかしそれは彼個人のというよりは、当時のフランスの若者たち、特に映画や小説に興味のあった人物であれば誰もがそうであったのではないだろうか

当時はアメリ1930年代から40年代当時はハリウッド映画の黄金時代。豪華なセットで撮影された映画には、仕立ての良いスーツやドレスに身を包んだ俳優たち。コーヒーを啜る所作でさえ限りなく洗練されている(もちろんフランス映画でもそうだ)。

『天使の入江』では、初めて高級レストランへ入ったジャンが「こういう世界は映画やアメリカの小説だけだと思っていた」と口にする。『ローラ』でも主人公の初恋の相手は、アメリカから来た水兵だった。同時期に活躍したゴダールトリュフォーにも、ハリウッドの巨匠、ヒッチコックからの影響が見られることを考えれば、いま私たちがハリウッドに向けるよりも熱いまなざしがあの映画の聖地に向けられていたのではないだろうか。

多くがスタジオではなくロケによって撮影されたドゥミ監督の映画からは、ナントやシェルブール、ニースといった当時のフランスの風景を観ることができる(『午後五時から七時のクレオ』にはフランスの生活風景そのものが映っている!)。そしてその映像に、私もまた熱いまなざしを向けてしまう。

当時のフランスには、ゴダールトリュフォー、レネ、ドゥミ、ヴェルダ。世紀をまたぐフランス映画史の潮流でもきらりと光る映画監督たちがいた。彼らが毎日のように歩いていた通り。恋人と甘い散歩に耽った川沿い(もちろんドゥミとヴェルダも)。夢のような新作映画が次々上映された劇場。そして、映画談義に花を咲かせたであろう、カフェ(脚本執筆に頭を悩ませながらコーヒーを啜る日もあったかもしれない)。

ヌーヴェルヴァーグの偉人たちが若者特有のギラリとした眼差しでパリやナントの通りをすれ違い、また時には奇跡的な出会いをすることもあったのだと思うと、心が震える。歴史が変わる瞬間が、いくつも起こっていたのだ。

 

そしてドゥミ監督の面白い特徴の一つとして、アイリスで始まりアイリスで終わることが多い。アイリスとは、画面の一点から丸く切り抜かれてから、画面全体を映していく手法だ(ちょうど『ローラ』の始まりと終わりがそれだ)。これについて、ドュミ監督は以下のように語っている。

 

「私がアイリスで好きなのは、映像が後ろに残り続けて、完全には終わらないところです。フェードで映画の幕を開けたり閉じたりするのは、好きではありません。それに対してアイリスだと、まるで映画が前から存在していたように見えるし、終わった後も存在し続けて、縁の後ろにあります。それは、断絶を避けるためのものなのです」

 

彼にとって映画は、100年の人生を生きる人々がすれ違った、一瞬の出来事、ひとときの光を切り取っているにすぎない。

『ローラ』で待ち人への焦がれる心情を熱く歌ったダンサーの心も、数年もすればまったく冷めているかもしれないし、『天使の入江』でのジャンヌ・モローも、いずれ賭け事をしていた日々を懐かしく思うのかもしれない。

幕が閉じても彼女たちは生き続けるのだし、いくつもの輝く邂逅に至るだろう。スクリーンには映されないドラマが未来で待っていて、それは私たち観客から独立した別の世界で繰り広げられるのだ。

そしてそういう「すれ違い」は私たちの現実でも起こりうるのではないだろうか。あなたはいずれ、カフェで隣り合って座った相手と結ばれるかもしれないし、そのことに生涯気付かずにいるかもしれない。ずっと後でその相手が誰かに奪われるとして、恋敵はそのまた隣に座っていたかもしれない。これはあまりに現実離れした、過度にロマンチックな仮定だ。しかしカメラを持った第三者が介入すれば、私たちの人生はなんと劇的なことか。そして、ロマンチックな予言をもう一つあなたが将来、人生最後の初恋をする相手といま劇場で、ドゥミの映画を観ようとしているかもしれない。

体現帝国第九回公演『Gulliver-不安の島-』レビュー

作品名:体現帝国第九回公演『Gulliver-不安の島-』
2021/5/28-29 愛知県芸術劇場 小ホール Criticism by Kaito Tokumaru

蜂起せよ人類、時刻は変革を指している

 本公演は愛知県芸術文化劇場・小ホールで上演された作品で、昨年の12月に某公園で行なわれた同劇団の野外移動式摩訶不思議演劇アドベンチャー 第九回公演 『Gulliver-不安の島-』と同じナンバリングとタイトルを冠している。どちらもジョナサン・スウィフトによる『ガリバー旅行記』を原作としているが、原作との共通点は旅的な要素と風刺的な要素が垣間見える程度である。同じタイトルではあるが、野外公園と本公演では内容が全く異なっていた。特に本公演はほとんどセリフがなく、劇伴演奏と身体表現で展開していったのが印象的だった。

 

では、この作品はどのように上演されたのだろうか?

 

【上演の様子】
 開演前、愛知県芸術劇場小ホール前に設置された受付付近には、ナース服を来た係員が配置されていた。劇場入り口には『不安分離抽出実験室』と書かれた横断幕がでかでかと掲げられており、まるで非人道的な実験を行う軍事研究所のような印象を抱かせる。
劇場に入ると舞台上は比較的簡素だった。下手に教会にあるようなベンチが設置されている以外は、酢酸カーミンの楽器が舞台中央に並び、演劇の舞台ではなく音楽ライブの舞台かと思えるほどだ。

開演のブザーが鳴るとぞろぞろと役者が入ってくる。全員が金剛力士像のように露出度が高く纏うような衣服を身に着けており、どれも黒色をしている。
相手を威嚇し、自らを鼓舞するハカのようなパフォーマンス。「体現帝国」と連呼する彼らの叫びに演者と観客の精神は揺さぶられ、劇場の熱気が高まっていく。
ボルテージが最高潮に達すると彼らはあっさりと退場し、ひとりの少女が現れる。
普段着のような衣装で現れた彼女が扉を叩くような仕草をすると、白衣を纏った酢酸カーミンが現れ演奏が始まる。

やがて不気味な笑みを浮かべた役者達が現れ、胎児を抱きかかえながら、舞台上を円を描いて歩き続ける。生と死どちらの要素も併せ持った胎児と円環。連綿と続く輪廻転生が浮かび上がり、そこへ引き込まれるような演奏とともに不気味なイメージが展開していく。 

次は日常に近い風景が舞台上に立ち現れる。歩きスマホをする女、スナック菓子を分け合うカップル、空を見上げる男、そして銃を構えた男。それぞれが異なる「不安」の象徴だろうか。

やがて男二人が他の役者に脱がされていき、陰茎を露出させる状況に陥った。

続くシーンでは、もう一度胎児を手に取ったかと思えば地面に投げつけ、踏みつけ、頭上から降りてきた首吊り縄に吊るす。そして役者全員が新聞を読み始めるという社会風刺的なシーンを経て、奇妙なシーンに移り変わった。腕一本、足一本が欠損している若い女が二人羽織のような手法で食事を始めたのだ。その前を男性の太い足を持った細身の女性が舞台上を横断した。

 

舞台上が暗転し、静寂が訪れたかと思うと、無人の三輪車が現れた。無人のままゆっくりと進む三輪車、やがてクライマックスなると、現れた役者が一斉にセリフを言い始め、激しい演奏。まるで夢だったかのように役者たちも演奏者たちも姿を消す。

誰もいなくなった舞台に少女が再度現れると、美しい夜空を見上げ、上手奥に開かれた光の扉へと消えていった。

 


【劇評】

 前回の野外公演と比較すると、劇中に暗喩された様々な「不安」をある種のカタルシスによって取り払うという基本コンセプトは一貫しているように思える。
そして今回は、怪しげな衣装とじっとりとしたシーン展開による不気味な演劇と、劇伴演奏の酢酸カーミンによる轟々たる演奏が融和し、どこかゴシック的なイメージを帯びながらも比較的さっぱりした演劇に収斂した。ずば抜けて印象的な舞台装置や小道具、展開がなく、堅実に一つ一つのシーンを積み重ねていたためだ。また、ストーリー的な補助線は弱く、物語的な収束の仕方よりも研ぎ澄まされた身体表現や演奏による「不安」のイメージの提示に重点が置かれている印象を受けた。

 

一方で、提示された「不安」に対して的確な対処が為されなかったことに物足りなさを覚えた。劇中では死への不安、社会や他者への不安など、漠然とした「不安」のイメージを提示され、それについて観客に想像させるような構造だったと思う。
しかし、死や社会・他者に対する不安は誰しもが持ちうる不安であり、各々がある程度思考を終えている事柄である。そこに思考材料となる斬新なエッセンスが注入されなければ、すぐに思考は終わってしまう。全体的に緩やかにシーンが展開していったので、早々に思考を終えた後は早く次のシーンが来ないかと待つ時間が多かった。
最終的な「不安」の対処としては、劇伴とセリフにより瞬間的に大きなエネルギーを生み出すことで収束させているように見えたが、単純にエネルギーが不足していた。もともとストーリー重視で展開する上演ではなかったので、物語的なカタルシスに収束できないという問題が生じる。「不安」が中途半端に放置されてしまったため、ラストの星空も、メルヘンなドラマティックを唐突に持ち込まれたように感じられた。

 

また、酢酸カーミンの舞台装置または演者としての役割が不完全だったように思える。奏者が舞台手前まで来るシーンもあったが、ポーズを取るのみで元の位置に戻っていった。それ以外は演奏に徹するのみで、舞台の中央を大きく位置取るにしては舞台空間への視覚的な貢献度が低かったのではないか。劇伴として演奏するシーンもあったが、演奏ではなくデータ音源が使われることも多く、生演奏を選択することで得られたメリットよりも、舞台空間が制限されてしまったデメリットが目立つ印象を受けた。

 

演出の観念的な事柄について言及すると、全体を通して漠然とした人間社会像が下地にあったように思える。特に役者全員が新聞を広げるシーンでは、読まない人物が排斥されたり、全員が同じ姿勢で読むことが強要されていたりと強い同調圧力への風刺が垣間見えた。

しかし、そういった同調圧力が提示されるごとに必ずそれを糾弾する人物が現れ、やがて集団の前に平伏すという風刺的な演出が為されていた。

 

今回は「不安」がテーマだったが、最も「不安」を抱かせたのは中盤の奇妙な二人羽織のシーンだろう。四肢が欠損した人間が登場した際、私はそれに対しおぞましい感覚を覚え「不安」を抱いた。自分の肉体の一部が失われることへの不安、歪な外見を獲得することへの不安、そして自身の肉体が制御不能になることへの不安である。

現代はおおよそ全てが代替可能な時代である。バターをマーガリンで代替できるように、これを読むあなたの代わりはいくらでもいるし、人類全体も機械に代替され始めている。シンギュラリティに近づくにつれ、人工知能がさらにそれを加速させていくだろう。そういう、自分たちと同等以上の知能を持った何かと共存する上で、相手を制御することは果たして可能なのか。闇雲に先へ先へと進み続ける人類に渡部剛己は警鐘を鳴らしたかったのかもしれない。

まるで誰も乗っていない三輪車のように、私たちは何か及び知れない力によって進んでいく。神の見えざる手によって暗黒の地点へと連れていかれる。頭上には赤ん坊が首を吊られていて、それを黙認しているのだ。劇中では明らかに暗い未来像が提示されていた。
しかし、最後にもう一度少女が現れる。ラストシーンでは舞台後方に無数の星々が煌めき、その広大な夜空をひときわ大きな光が横断した。彼女は笑顔を浮かべると、光差す向こうの世界へと駆けていった。それが死という輝きではないことを私は信じたい。
果たして、我々の未来は三輪車のように暗闇へ消えるのか、それとも少女のように光の世界へと足を踏み入れるのか。それを左右するのは、社会を隠れ蓑にし同調圧力に屈する人々ではない。新聞を破り捨て社会に声を上げる個人の両肩に、あなたの両肩に、重くのしかかっているのだ。



(以下は本公演のレビューから少しずれているが、良ければご一読願いたい)

 

【体現帝国の劇団像】
前回の野外公演はまさに観客を共犯者に仕立て上げる集団犯罪のような公演だった。直前まで公演場所は秘匿され、公共の場である某所に集められた我々はいきなり眼前に現れた黒い集団に、握りしめていた4000円をもぎ取られた。次々に移動していくうちに目隠しでムカデ歩きをさせられ、大柄な男優を担がされ、舞台上に引きずり出されもした。本当にここで公演をしていていいのか、誰かが怪我をするのではないか、そういう不安を共有し、なんとなくのストーリーに文字通り運ばれていった先には、不安を克服し一体となったカタルシスがあった。

一方で今回の公演は、席について観るだけの我々は共犯者でなく観客であったし、その溝を埋める何かは提示されなかったように思う。終演後に演劇を観たなという満足感に浸る一方で、内心にもやがかかっているのを否めなかった。家に帰り、またいつもの生活に戻り始めるにつれ、そのもやの要因が明らかになった。

そうか、俺は現実を改変したかったのだ。日常のオアシスとしての演劇、精神の特効薬としての演劇、社会からの隠れ蓑としての演劇。そういう、現実世界から切り離した存在としての演劇ではない。野外公演版『Gulliver-不安の島-』のような、実際に現実ごと捻じ曲げていけるような感覚を味わいたかったのだ。それに比べて’’普通’’だった今回の公演では、体現帝国は何かやってくれるという淡い期待を見事に打ち砕かれたのだった。

しかし同時に、果たして緊急事態宣言下で劇場公演を行うことが「普通」なのだろうかという疑問も浮かぶ。

多くの劇団が公演の中止や延期、zoom演劇や映像演劇への転換を余儀なくされる一方で、劇場で公演を行なうことはもはや普通ではない。むしろ、緊急事態宣言下で計画通りに何の妥協も許さない公演を行えるということは全くもって普通ではない。そういう意味で前衛でありながらも、劇団体制の堅実さが大いに示された。

本公演により体現帝国は「野外公演をする劇団」というアングラでイロモノの劇団像から脱却し、強力な劇伴で生観劇の意義を補強しながら「劇場で精度の高い公演をきっちり行う劇団」という信頼できる劇団像を勝ち得たのではないだろうか。

朽ちた蔓延るレビュー

作品名:朽ちた蔓延る 愛知県芸術劇場 小ホール Criticism by Kaito Tokumaru

朽ちた蔓延る

開演前、配布された『朽ちた蔓延る』の戯曲を開くと「架空の遺跡を、声と身体によって建築したいと考えた」と記述があった。この戯曲は遺跡を軸として、そこにゆかりのある人々が各々の関わり方や記憶を語ることによって遺跡の歴史や、そこに住んでいた人々の生活が明らかになっていく構造になっていた。

冒頭、舞台上が真っ暗になり、やがて亡霊たちの声が聞こえてくる。一人話せば後を追うように幾人かの声が繰り返される。呻き声のようなそれに耳を澄ませていると、眼前の暗闇に石畳の遺跡を想起してしまう。数多の亡霊の声が重なり合った独白は、まるで「遺跡」という建築物そのものが語り掛けているようだ。これは遺跡の独白。つまり、この劇は遺跡自体が我々に何らかの主張を試みる行為なのだ。

ふっと奥の幕に映像が投影される。劇場を出てすぐの位置、オアシス 21 にいる若い女性が映る。異国の「遺跡」に訪れた体験談を語る。徐々に、当時の自分と意識が同期しながら、今私たちがいる小ホールへと向かう。芸術センターを遺跡と呼称し、手すりや柱を物色して独自の解釈を述べる姿からは、ずかずかと自分のテリトリーを侵されるような不快感を覚えた。

これも「遺跡」の主張であろう。我々はピラミッドや寺院などの神聖な施設へ、ろくに歴史も知らずにずかずかと踏み込む。知識を持たずして、好奇心を満たすために異文化に踏み込む行為は、墓荒らしとも言えるかもしれない。

奥の幕に影絵。扇を使い。異国語で歌いながら舞う影が見える。コーランのような、お経のような独特の響きで、宗教儀式を思わせる。歌い終わると、彼にそっくりな棒使い人形を操り始める。彼は

「遺跡」にゆかりのあった民のようだ。今となっては朽ち果ててしまった「遺跡」にも、かつては多くの

民が訪れていたと語る。まるで青春時代の話を聞くように、「遺跡」の絶頂期の話には心が躍った。

シーンは移り、気が付くとひらひらとした衣服をまとう女性が炎のように揺らめく光の前に立っている。消え入りそうな声で他界した夫の手記を読み上げる。彼は歴史家として「遺跡」を調査していたらしく、手記は重要な資料のようだ。しかし、妻はそれを無価値とし、涙を拭き、鼻をかむちり紙として使った。

「遺跡」は、自身に価値があると認めてくれた歴史家さえ失い、足を踏み入れる者は僅かばかりで、未だ朽ち果てたままだ。志半ばで倒れた歴史家の手記が、サーキュレータ―に飛ばされ宙を舞う。その光景に、彼と「遺跡」の無念が反映している。

作品名:朽ちた蔓延る愛知県芸術劇場 小ホール Criticism by Kaito Tokumaru

 

再度、映像が投影される。一人称の視点で、英語の独白。ヨーロッパ圏から来た異教徒が、古くに「遺跡」に訪れた時の出来事のようだ。奇怪な民族に言われるがままに、女神の像に絵の具を塗りたくる。もしかしたら女神への冒涜かもしれない。  

劇が進むにつれて、だんだんと「遺跡」の記憶を見ているような感覚になった。記憶は、幼い頃から大人になるまで、時系列順に綺麗に並べられているわけではない。むしろぐちゃぐちゃだ。印象深い思い出や、忘れられない出来事が溶け合っている。人間の場合、その記憶の集積により人格が形成される。

展開が進むにつれ、「遺跡」を形成する歴史=記憶を紐解きながら、「遺跡」という人格と対話する。そこへ、「遺跡」と亡霊という、スピリチュアルな要素が劇場空間に流れ込み、役者も、舞台美術も、照明も音響も、公演そのものが「遺跡」の思念によって行われているように錯覚した。

どの役者も役を行き来し、「遺跡」の歴史を語る。一貫した役を演じる役者がおらず、ただ「遺跡」だけが確かにそこに在る構造は、登場人物たちの背景への没入を阻害した。それにより、「遺跡」の歴史や周囲の街の様子など、「遺跡」の背景に想像が広がっていく。やがて脳内に架空の「遺跡」だけでなく、架空の民族までもが建築された。

DANCE SELECTION 2020レビュー『絶対的な自己と関係性における自己』

作品名:DANCE SELECTION 2020(柿崎麻莉子『The stillness of the wind』|倉田 翠/akakilike『家族写真』)
2020/10/2- 2020/10-3愛知県芸術劇場 小ホール Criticism by Kaito Tokumaru

 

絶対的な自己と関係性における自己

 

柿崎麻莉子『The stillness of the wind』

何もない舞台。音もなく、薄暗い照明の中、彼女が現れる。視界から読み取れる「自然」は衣装に描かれた草花のみだ。

踊り出す。何かをじっと見たり、風の中を歩く動き。まるで生態系の全てをダンスに凝縮したようで、「自然を感じる人間」ではなく「自然そのもの」が現象され、自然の忙しなさを感じる。

中盤からは照明が明るくなる。笑ったり、誘うような目でこちらを見たりと、感情も豊かになる。

最も印象的だったのは、胸の辺りから喉元まで上ってきたものを口から取り出し、恍惚とした表情を浮かべる所作だ。それを見た時、自然ですら何かの媒介者でしかないのだと直覚した。

キャンプや登山、森林浴といった次元ではなく、普段食す肉や野菜も自然だ。自然は僕達のエネルギーだ。しかし彼女を見ていると、人間のおよび知らぬ超然としたエネルギーが自然を介して僕たちに作用しているのだと、不思議と感じられた。

終盤に差し掛かると音楽。異国の言語を話す女性の祈るような一節が繰り返される。スポットライトのように丸く萎んだ光の中を彼女は激しく踊る。両腕を天高く伸ばし、空を見上げ、小刻みに足を動かす姿は、祈りの儀式のようだ。それは追善供養を思わせ、淘汰されていった魂たちを星々に透かし見ているようだった。

やがて音楽は激しさを増し、消える。と同時に肉体も「静」を取り戻す。

 

倉田 翠/akakilike『家族写真』

『家族写真』は家族という関係性に焦点を当ててダンスを構築した。演劇的な作品で、ダンサーだけでなく役者や写真家も出演する。

突然半裸の男が現れ、歌謡曲を歌う。家族四人により長机が設置され、半裸の男は去り、家族会議のような雰囲気になる。しばらくすると、父らしい男は「俺が死んだらどうする?」と家族に語り掛け、生命保険に加入した旨の話を延々と続ける。劇中、長々と話し続ける父は明らかに舞台上を掌握しており、父の支配力を連想させる。

一方で母らしい人物は無表情で無言。やがて狂ったように踊り始める。行き場を失った感情が彼女を操っているようだ。兄も黙々と家族の写真を撮り続ける。一度だけ「芸術大学に行きたい」と叫ぶが、誰からも返答は無い。妹はふいにバレエを踊り出す。すると他の出演者は微笑ましく見守る。その間だけ緊張が解かれ、観客も息をつく。そこへ新たに男が現れ、別の家族の物語が言葉で紡がれる。

「再演するごとに成長するダンス」という意図が次第に見えてきた。例えば十年後、「俺が死んだらどうする?」という父の言葉の重みが増す。「芸術大学に行きたい」と叫んだ兄の言葉は、叶わなかった願いの回想として受け取られるだろう。大人の女性になった妹のバレエは、舞台上の緊張を解いてくれるだろうか。

 

『The stillness of the wind』からは自然と自己という関係性を固定したうえで、自己を掘り下げていく人間の縦の広がりを。一方で『家族写真』からは、重複していくアート領域、そして自分以外の誰かへと接続していく、人間の横の広がりを感じられた。