空気の標本

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体現帝国第九回公演『Gulliver-不安の島-』レビュー

作品名:体現帝国第九回公演『Gulliver-不安の島-』
2021/5/28-29 愛知県芸術劇場 小ホール Criticism by Kaito Tokumaru

蜂起せよ人類、時刻は変革を指している

 本公演は愛知県芸術文化劇場・小ホールで上演された作品で、昨年の12月に某公園で行なわれた同劇団の野外移動式摩訶不思議演劇アドベンチャー 第九回公演 『Gulliver-不安の島-』と同じナンバリングとタイトルを冠している。どちらもジョナサン・スウィフトによる『ガリバー旅行記』を原作としているが、原作との共通点は旅的な要素と風刺的な要素が垣間見える程度である。同じタイトルではあるが、野外公園と本公演では内容が全く異なっていた。特に本公演はほとんどセリフがなく、劇伴演奏と身体表現で展開していったのが印象的だった。

 

では、この作品はどのように上演されたのだろうか?

 

【上演の様子】
 開演前、愛知県芸術劇場小ホール前に設置された受付付近には、ナース服を来た係員が配置されていた。劇場入り口には『不安分離抽出実験室』と書かれた横断幕がでかでかと掲げられており、まるで非人道的な実験を行う軍事研究所のような印象を抱かせる。
劇場に入ると舞台上は比較的簡素だった。下手に教会にあるようなベンチが設置されている以外は、酢酸カーミンの楽器が舞台中央に並び、演劇の舞台ではなく音楽ライブの舞台かと思えるほどだ。

開演のブザーが鳴るとぞろぞろと役者が入ってくる。全員が金剛力士像のように露出度が高く纏うような衣服を身に着けており、どれも黒色をしている。
相手を威嚇し、自らを鼓舞するハカのようなパフォーマンス。「体現帝国」と連呼する彼らの叫びに演者と観客の精神は揺さぶられ、劇場の熱気が高まっていく。
ボルテージが最高潮に達すると彼らはあっさりと退場し、ひとりの少女が現れる。
普段着のような衣装で現れた彼女が扉を叩くような仕草をすると、白衣を纏った酢酸カーミンが現れ演奏が始まる。

やがて不気味な笑みを浮かべた役者達が現れ、胎児を抱きかかえながら、舞台上を円を描いて歩き続ける。生と死どちらの要素も併せ持った胎児と円環。連綿と続く輪廻転生が浮かび上がり、そこへ引き込まれるような演奏とともに不気味なイメージが展開していく。 

次は日常に近い風景が舞台上に立ち現れる。歩きスマホをする女、スナック菓子を分け合うカップル、空を見上げる男、そして銃を構えた男。それぞれが異なる「不安」の象徴だろうか。

やがて男二人が他の役者に脱がされていき、陰茎を露出させる状況に陥った。

続くシーンでは、もう一度胎児を手に取ったかと思えば地面に投げつけ、踏みつけ、頭上から降りてきた首吊り縄に吊るす。そして役者全員が新聞を読み始めるという社会風刺的なシーンを経て、奇妙なシーンに移り変わった。腕一本、足一本が欠損している若い女が二人羽織のような手法で食事を始めたのだ。その前を男性の太い足を持った細身の女性が舞台上を横断した。

 

舞台上が暗転し、静寂が訪れたかと思うと、無人の三輪車が現れた。無人のままゆっくりと進む三輪車、やがてクライマックスなると、現れた役者が一斉にセリフを言い始め、激しい演奏。まるで夢だったかのように役者たちも演奏者たちも姿を消す。

誰もいなくなった舞台に少女が再度現れると、美しい夜空を見上げ、上手奥に開かれた光の扉へと消えていった。

 


【劇評】

 前回の野外公演と比較すると、劇中に暗喩された様々な「不安」をある種のカタルシスによって取り払うという基本コンセプトは一貫しているように思える。
そして今回は、怪しげな衣装とじっとりとしたシーン展開による不気味な演劇と、劇伴演奏の酢酸カーミンによる轟々たる演奏が融和し、どこかゴシック的なイメージを帯びながらも比較的さっぱりした演劇に収斂した。ずば抜けて印象的な舞台装置や小道具、展開がなく、堅実に一つ一つのシーンを積み重ねていたためだ。また、ストーリー的な補助線は弱く、物語的な収束の仕方よりも研ぎ澄まされた身体表現や演奏による「不安」のイメージの提示に重点が置かれている印象を受けた。

 

一方で、提示された「不安」に対して的確な対処が為されなかったことに物足りなさを覚えた。劇中では死への不安、社会や他者への不安など、漠然とした「不安」のイメージを提示され、それについて観客に想像させるような構造だったと思う。
しかし、死や社会・他者に対する不安は誰しもが持ちうる不安であり、各々がある程度思考を終えている事柄である。そこに思考材料となる斬新なエッセンスが注入されなければ、すぐに思考は終わってしまう。全体的に緩やかにシーンが展開していったので、早々に思考を終えた後は早く次のシーンが来ないかと待つ時間が多かった。
最終的な「不安」の対処としては、劇伴とセリフにより瞬間的に大きなエネルギーを生み出すことで収束させているように見えたが、単純にエネルギーが不足していた。もともとストーリー重視で展開する上演ではなかったので、物語的なカタルシスに収束できないという問題が生じる。「不安」が中途半端に放置されてしまったため、ラストの星空も、メルヘンなドラマティックを唐突に持ち込まれたように感じられた。

 

また、酢酸カーミンの舞台装置または演者としての役割が不完全だったように思える。奏者が舞台手前まで来るシーンもあったが、ポーズを取るのみで元の位置に戻っていった。それ以外は演奏に徹するのみで、舞台の中央を大きく位置取るにしては舞台空間への視覚的な貢献度が低かったのではないか。劇伴として演奏するシーンもあったが、演奏ではなくデータ音源が使われることも多く、生演奏を選択することで得られたメリットよりも、舞台空間が制限されてしまったデメリットが目立つ印象を受けた。

 

演出の観念的な事柄について言及すると、全体を通して漠然とした人間社会像が下地にあったように思える。特に役者全員が新聞を広げるシーンでは、読まない人物が排斥されたり、全員が同じ姿勢で読むことが強要されていたりと強い同調圧力への風刺が垣間見えた。

しかし、そういった同調圧力が提示されるごとに必ずそれを糾弾する人物が現れ、やがて集団の前に平伏すという風刺的な演出が為されていた。

 

今回は「不安」がテーマだったが、最も「不安」を抱かせたのは中盤の奇妙な二人羽織のシーンだろう。四肢が欠損した人間が登場した際、私はそれに対しおぞましい感覚を覚え「不安」を抱いた。自分の肉体の一部が失われることへの不安、歪な外見を獲得することへの不安、そして自身の肉体が制御不能になることへの不安である。

現代はおおよそ全てが代替可能な時代である。バターをマーガリンで代替できるように、これを読むあなたの代わりはいくらでもいるし、人類全体も機械に代替され始めている。シンギュラリティに近づくにつれ、人工知能がさらにそれを加速させていくだろう。そういう、自分たちと同等以上の知能を持った何かと共存する上で、相手を制御することは果たして可能なのか。闇雲に先へ先へと進み続ける人類に渡部剛己は警鐘を鳴らしたかったのかもしれない。

まるで誰も乗っていない三輪車のように、私たちは何か及び知れない力によって進んでいく。神の見えざる手によって暗黒の地点へと連れていかれる。頭上には赤ん坊が首を吊られていて、それを黙認しているのだ。劇中では明らかに暗い未来像が提示されていた。
しかし、最後にもう一度少女が現れる。ラストシーンでは舞台後方に無数の星々が煌めき、その広大な夜空をひときわ大きな光が横断した。彼女は笑顔を浮かべると、光差す向こうの世界へと駆けていった。それが死という輝きではないことを私は信じたい。
果たして、我々の未来は三輪車のように暗闇へ消えるのか、それとも少女のように光の世界へと足を踏み入れるのか。それを左右するのは、社会を隠れ蓑にし同調圧力に屈する人々ではない。新聞を破り捨て社会に声を上げる個人の両肩に、あなたの両肩に、重くのしかかっているのだ。



(以下は本公演のレビューから少しずれているが、良ければご一読願いたい)

 

【体現帝国の劇団像】
前回の野外公演はまさに観客を共犯者に仕立て上げる集団犯罪のような公演だった。直前まで公演場所は秘匿され、公共の場である某所に集められた我々はいきなり眼前に現れた黒い集団に、握りしめていた4000円をもぎ取られた。次々に移動していくうちに目隠しでムカデ歩きをさせられ、大柄な男優を担がされ、舞台上に引きずり出されもした。本当にここで公演をしていていいのか、誰かが怪我をするのではないか、そういう不安を共有し、なんとなくのストーリーに文字通り運ばれていった先には、不安を克服し一体となったカタルシスがあった。

一方で今回の公演は、席について観るだけの我々は共犯者でなく観客であったし、その溝を埋める何かは提示されなかったように思う。終演後に演劇を観たなという満足感に浸る一方で、内心にもやがかかっているのを否めなかった。家に帰り、またいつもの生活に戻り始めるにつれ、そのもやの要因が明らかになった。

そうか、俺は現実を改変したかったのだ。日常のオアシスとしての演劇、精神の特効薬としての演劇、社会からの隠れ蓑としての演劇。そういう、現実世界から切り離した存在としての演劇ではない。野外公演版『Gulliver-不安の島-』のような、実際に現実ごと捻じ曲げていけるような感覚を味わいたかったのだ。それに比べて’’普通’’だった今回の公演では、体現帝国は何かやってくれるという淡い期待を見事に打ち砕かれたのだった。

しかし同時に、果たして緊急事態宣言下で劇場公演を行うことが「普通」なのだろうかという疑問も浮かぶ。

多くの劇団が公演の中止や延期、zoom演劇や映像演劇への転換を余儀なくされる一方で、劇場で公演を行なうことはもはや普通ではない。むしろ、緊急事態宣言下で計画通りに何の妥協も許さない公演を行えるということは全くもって普通ではない。そういう意味で前衛でありながらも、劇団体制の堅実さが大いに示された。

本公演により体現帝国は「野外公演をする劇団」というアングラでイロモノの劇団像から脱却し、強力な劇伴で生観劇の意義を補強しながら「劇場で精度の高い公演をきっちり行う劇団」という信頼できる劇団像を勝ち得たのではないだろうか。