空気の標本

諸芸術の空気感を標本として抽出し、アーカイブするプロジェクト

DANCE SELECTION 2020レビュー『絶対的な自己と関係性における自己』

作品名:DANCE SELECTION 2020(柿崎麻莉子『The stillness of the wind』|倉田 翠/akakilike『家族写真』)
2020/10/2- 2020/10-3愛知県芸術劇場 小ホール Criticism by Kaito Tokumaru

 

絶対的な自己と関係性における自己

 

柿崎麻莉子『The stillness of the wind』

何もない舞台。音もなく、薄暗い照明の中、彼女が現れる。視界から読み取れる「自然」は衣装に描かれた草花のみだ。

踊り出す。何かをじっと見たり、風の中を歩く動き。まるで生態系の全てをダンスに凝縮したようで、「自然を感じる人間」ではなく「自然そのもの」が現象され、自然の忙しなさを感じる。

中盤からは照明が明るくなる。笑ったり、誘うような目でこちらを見たりと、感情も豊かになる。

最も印象的だったのは、胸の辺りから喉元まで上ってきたものを口から取り出し、恍惚とした表情を浮かべる所作だ。それを見た時、自然ですら何かの媒介者でしかないのだと直覚した。

キャンプや登山、森林浴といった次元ではなく、普段食す肉や野菜も自然だ。自然は僕達のエネルギーだ。しかし彼女を見ていると、人間のおよび知らぬ超然としたエネルギーが自然を介して僕たちに作用しているのだと、不思議と感じられた。

終盤に差し掛かると音楽。異国の言語を話す女性の祈るような一節が繰り返される。スポットライトのように丸く萎んだ光の中を彼女は激しく踊る。両腕を天高く伸ばし、空を見上げ、小刻みに足を動かす姿は、祈りの儀式のようだ。それは追善供養を思わせ、淘汰されていった魂たちを星々に透かし見ているようだった。

やがて音楽は激しさを増し、消える。と同時に肉体も「静」を取り戻す。

 

倉田 翠/akakilike『家族写真』

『家族写真』は家族という関係性に焦点を当ててダンスを構築した。演劇的な作品で、ダンサーだけでなく役者や写真家も出演する。

突然半裸の男が現れ、歌謡曲を歌う。家族四人により長机が設置され、半裸の男は去り、家族会議のような雰囲気になる。しばらくすると、父らしい男は「俺が死んだらどうする?」と家族に語り掛け、生命保険に加入した旨の話を延々と続ける。劇中、長々と話し続ける父は明らかに舞台上を掌握しており、父の支配力を連想させる。

一方で母らしい人物は無表情で無言。やがて狂ったように踊り始める。行き場を失った感情が彼女を操っているようだ。兄も黙々と家族の写真を撮り続ける。一度だけ「芸術大学に行きたい」と叫ぶが、誰からも返答は無い。妹はふいにバレエを踊り出す。すると他の出演者は微笑ましく見守る。その間だけ緊張が解かれ、観客も息をつく。そこへ新たに男が現れ、別の家族の物語が言葉で紡がれる。

「再演するごとに成長するダンス」という意図が次第に見えてきた。例えば十年後、「俺が死んだらどうする?」という父の言葉の重みが増す。「芸術大学に行きたい」と叫んだ兄の言葉は、叶わなかった願いの回想として受け取られるだろう。大人の女性になった妹のバレエは、舞台上の緊張を解いてくれるだろうか。

 

『The stillness of the wind』からは自然と自己という関係性を固定したうえで、自己を掘り下げていく人間の縦の広がりを。一方で『家族写真』からは、重複していくアート領域、そして自分以外の誰かへと接続していく、人間の横の広がりを感じられた。