空気の標本

諸芸術の空気感を標本として抽出し、アーカイブするプロジェクト

私たちは銀幕の向こうで、ジャック・ドゥミとすれ違う

”以下の文章はミニシネマのジャック・ドゥミ監督特集上映に際して執筆された文章である”

 

ジャック・ドゥミヌーヴェルヴァーグ左岸派を代表する映画監督の一人であり、錚々たる監督たちが顔を連ねるフランス映画史の中でも、最も独創的な監督の一人として名を残している。パルム・ドールを受賞した『シェルブールの雨傘1964)』や『ロシュフォールの恋人たち1967)』などミュージカル映画がよく知られている。

私は彼の映画を観る中でとある二つの特徴、故郷を舞台としたり、作品に自らを重ねたりと自伝的な要素が多いこと、映画世界への憧れに満ち満ちていることが浮かび上がってきた。本稿では、彼の故郷、そして映画への憧れについて語っていきたいと思う。

ドゥミ監督の映画の多くは、故郷であるフランスを舞台としている。特に『ローラ』は生まれ故郷のナントが舞台であるし、傑作と名高い『シェルブールの雨傘(1964)』もフランスの港まちが舞台になっており、同じく港まちであったナントからの影響が伺える。自身の人生から多くのインスピレーションを受けていることが伺える(ちなみに『ローラ』に登場するローランは彼と同じヴァイオリン弾きであるし、ローランは28歳で、撮影時のドゥミ監督は29歳)。

そしてもう一つは、少年時代に何度も足を踏み入れた夢の世界への、強烈な憧憬である。

 

「私は、もうすっかり魅了されてしまいました。(中略) 赤の絨緞、金、きらめく照明、ビロードの幕の後に降りてくる鉄製のシャッター……。それらは、すっかり私を魅了したものだったのです。それはまったくもう魔法のようでした。」

 

彼の映画には、フランス映画の世界への憧れ(彼は『ローラ』に関するインタビューで『白夜(1957)』や『ブローニュの森の貴婦人たち(1944)』に影響を受けたと述べている)や、海を越えたアメリカへの憧れ、その香りが強く渦巻いている。しかしそれは彼個人のというよりは、当時のフランスの若者たち、特に映画や小説に興味のあった人物であれば誰もがそうであったのではないだろうか

当時はアメリ1930年代から40年代当時はハリウッド映画の黄金時代。豪華なセットで撮影された映画には、仕立ての良いスーツやドレスに身を包んだ俳優たち。コーヒーを啜る所作でさえ限りなく洗練されている(もちろんフランス映画でもそうだ)。

『天使の入江』では、初めて高級レストランへ入ったジャンが「こういう世界は映画やアメリカの小説だけだと思っていた」と口にする。『ローラ』でも主人公の初恋の相手は、アメリカから来た水兵だった。同時期に活躍したゴダールトリュフォーにも、ハリウッドの巨匠、ヒッチコックからの影響が見られることを考えれば、いま私たちがハリウッドに向けるよりも熱いまなざしがあの映画の聖地に向けられていたのではないだろうか。

多くがスタジオではなくロケによって撮影されたドゥミ監督の映画からは、ナントやシェルブール、ニースといった当時のフランスの風景を観ることができる(『午後五時から七時のクレオ』にはフランスの生活風景そのものが映っている!)。そしてその映像に、私もまた熱いまなざしを向けてしまう。

当時のフランスには、ゴダールトリュフォー、レネ、ドゥミ、ヴェルダ。世紀をまたぐフランス映画史の潮流でもきらりと光る映画監督たちがいた。彼らが毎日のように歩いていた通り。恋人と甘い散歩に耽った川沿い(もちろんドゥミとヴェルダも)。夢のような新作映画が次々上映された劇場。そして、映画談義に花を咲かせたであろう、カフェ(脚本執筆に頭を悩ませながらコーヒーを啜る日もあったかもしれない)。

ヌーヴェルヴァーグの偉人たちが若者特有のギラリとした眼差しでパリやナントの通りをすれ違い、また時には奇跡的な出会いをすることもあったのだと思うと、心が震える。歴史が変わる瞬間が、いくつも起こっていたのだ。

 

そしてドゥミ監督の面白い特徴の一つとして、アイリスで始まりアイリスで終わることが多い。アイリスとは、画面の一点から丸く切り抜かれてから、画面全体を映していく手法だ(ちょうど『ローラ』の始まりと終わりがそれだ)。これについて、ドュミ監督は以下のように語っている。

 

「私がアイリスで好きなのは、映像が後ろに残り続けて、完全には終わらないところです。フェードで映画の幕を開けたり閉じたりするのは、好きではありません。それに対してアイリスだと、まるで映画が前から存在していたように見えるし、終わった後も存在し続けて、縁の後ろにあります。それは、断絶を避けるためのものなのです」

 

彼にとって映画は、100年の人生を生きる人々がすれ違った、一瞬の出来事、ひとときの光を切り取っているにすぎない。

『ローラ』で待ち人への焦がれる心情を熱く歌ったダンサーの心も、数年もすればまったく冷めているかもしれないし、『天使の入江』でのジャンヌ・モローも、いずれ賭け事をしていた日々を懐かしく思うのかもしれない。

幕が閉じても彼女たちは生き続けるのだし、いくつもの輝く邂逅に至るだろう。スクリーンには映されないドラマが未来で待っていて、それは私たち観客から独立した別の世界で繰り広げられるのだ。

そしてそういう「すれ違い」は私たちの現実でも起こりうるのではないだろうか。あなたはいずれ、カフェで隣り合って座った相手と結ばれるかもしれないし、そのことに生涯気付かずにいるかもしれない。ずっと後でその相手が誰かに奪われるとして、恋敵はそのまた隣に座っていたかもしれない。これはあまりに現実離れした、過度にロマンチックな仮定だ。しかしカメラを持った第三者が介入すれば、私たちの人生はなんと劇的なことか。そして、ロマンチックな予言をもう一つあなたが将来、人生最後の初恋をする相手といま劇場で、ドゥミの映画を観ようとしているかもしれない。